静岡県のおもな遺跡の詳細

りがな とろいせき
遺跡名 登呂遺跡(国指定特別史跡 登呂遺跡)
ふりがな           とろ
所在地 静岡県静岡市登呂5丁目10番5号
発掘期間 1943年(発見)・1947〜50年・1965年・1979年・1984年・1988年・1989年・1993年・1994年・1995年・1996年・1997年・1999〜2000年発掘調査
発掘機関 静岡県・日本考古学協会・静岡市教育委員会(1979年〜)
主な遺構 水田跡・竪穴式住居跡・高床式住居跡・井戸・森林跡
主な遺物 土器(壺・甕等)・木製品(農具・建築部材・機織具部材等)・石製品(工具・漁労具)・金属製品(装身具等)・骨角製品(漁労具等)等
遺跡概要  登呂遺跡は弥生時代後期の農村の跡で、静岡平野の南東部、安倍川のつくった扇状地の端の微高地とその周辺の低地にあります。全体の面積は約110,000uで、集落と水田を含めた59,900uが特別史跡に指定されています。
 戦争中の昭和18年、軍需工場建設の際に遺跡は発見されました。その後、昭和22年から4年間、考古学者だけではなく建築・地理・植物等の専門家も交えた日本で初めてのの学際的な発掘調査が行われ、弥生時代の農村の様子が初めて明らかにされました。昭和40年、東名高速道路建設に伴う発掘調査により水田はさらに南に広がることが確認されました。
 調査の結果、集落部分からは平地式住居跡12軒、高床式倉庫跡2棟、井戸3箇所が発見され、その周囲には森林跡も発見されました。集落の南側には矢板で護岸された畦と灌漑用水路で区画された水田が約75,000u広がっていることがわかりました。また、土器(壺・甕等)、木製品(農具・建築部材・機織具部材等)、石製品(工具・漁労具)、金属製品(装身具等)、骨角製品(漁労具等)等の多種多様の豊富な遺物が出土しました。
 登呂遺跡の調査は、神話から科学的歴史研究への転換点としての意義があります。調査後、日本で最初の本格的遺跡公園として整備され、永年にわたって親しまれてきました。それから50年、平成9年からは再整備に向けて新たな発掘調査を開始しました。
(静岡県教育委員会『文化財ガイドブック−原始・古代の史跡−』(平成10年2月1日)より)
現在の状況 史跡公園(参加体験ミュージアムがあります)


ふりがな             とおとうみこくぶんじあと
遺跡名 国特定特別史跡 遠江国分寺跡
ふりがな          みつけ
所在地 静岡県磐田市見付(中央町)
発掘期間 1951年の本格調査ほか
発掘機関 主な調査は磐田市教育委員会
主な遺構 塔・金堂・講堂・南大門・中門・回廊の跡等
主な遺物 軒瓦・墨書土器等
遺跡概要  遠江国分寺跡は、奈良時代に聖武天皇が鎮護国家のために全国に造らせた国分寺のひとつです。磐田原台地のほぼ南端に位置し、台地の下には当時大之浦とよばれ、外洋ともつながる潟湖が広がっていました。屋根に葺かれた瓦の多くは、約10km離れた大須賀町で焼かれ、船で運ばれたものと考えられています。
 昭和26年に全国の国分寺跡の中で初めて発掘調査が行われ、塔・金堂(本尊を安置したところ)・講堂(経典の講義をしたところ)・南大門・中門・回廊の跡等の主な遺構が確認され、東大寺式の伽藍配置であることがわかりました。塔跡には中心礎石と隅の礎石が残っていて、高さ約67mの七重の塔と考えられています。また、この調査で推定された寺域は180m四方でした。しかし、近年の周辺の発掘調査から、伽藍地は東西180m、南北253mあり、その周囲にも関連する施設があったと考えられています。なお、文献には819年に火災があったことが記されていますが、その後も存続し、平安時代中期まで国分寺として機能していたことがわかっています。
 遺構の保存状態が良好のため、昭和26年の発掘調査後特別史跡に指定され、遺構は盛土されて基壇が復原されています。
 また、遠江国分寺金堂に北約450mの地点で、遠江国分尼寺の金堂跡と講堂跡が確認されています。国分寺と国分尼寺は南北の位置関係にあり、しかも、伽藍(建物)の中心線が同じです。
(静岡県教育委員会『文化財ガイドブック−原始・古代の史跡−』(平成10年2月1日)を一部改訂)
現在の状況 史跡公園(出土遺物や資料は磐田市埋蔵文化財センターにあります)


ふりがな あらいせきあと
遺跡名 新居関跡(国指定特別史跡 新居関跡)
ふりがな はまなぐんあらいちょうあらい
所在地 静岡県浜名郡新居町新居
発掘期間 1993年〜1995年 1998年〜2000年
発掘機関 新居町教育委員会
主な遺構 関所に関係する建築物跡等
主な遺物 特になし
遺跡概要  往時の関所の範囲は約8500uありましたが、現在の史跡指定範囲は5,476uです。現存する関所建物は297uです。
 新居関所は正式には今切関所といって、慶長5年(1600)に設置されました。創設当初は現在「大元屋敷」と呼ばれる場所にありましたが、元禄12年(1699)の暴風雨で移転し、さらに宝永4年(1707)の大地震によって翌5年に現在地に移転しました。
 新居関所は江戸時代の関所の中では最大級の規模を誇っていたと同時に、「入り鉄砲に出女」といって鉄砲と女性の通行に大変厳しい取り調べを行っていたところとしても知られています。新居関所は創設以来幕府の直轄でしたが、元禄15年(1702)以降三河国吉田藩(今の豊橋)に管理が移り、明治2年(1869)に廃止されました。
 現存の建物は、安政2年(1855)に建て替えられたもので、建物としては全国で唯一のものです。建物は昭和46年に解体修理が行われ、今では江戸時代の街道交通を物語る貴重な文化財として保存されています。
 関所の東側は江戸時代には浜名湖岸となっていて、対岸の舞阪宿とを結ぶ今切渡船の船着き場がありましたが、明治以降の埋め立てによりその面影はなくなってしまいました。
(静岡県教育委員会『文化財ガイドブック−中世以降の史跡−』(平成9年3月31日)を一部改訂)
現在の状況 主な建築物が復原されています(新居関所史料館が所在)

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